旧寄合所ミラー(コミュニティ記録・保存参照用)

本家確認:現在確認できません
本家確認
現在確認できません(最終成功 2026-10-21T13:15:01Z/確認試行 2026-10-25T10:15:01Z)
更新範囲
直近更新を継続確認
本文収蔵
2026-10-21T13:15:01Z(反映待ち 1件)
削除照合
確認待ち 16件
画像保全
2026-09-01T16:05:07Z(表示可能 8,337件)(未取得 1,624件)
検索反映
同期済み
バックアップ
2026-10-14T20:10:13Z 保存版一覧
https://yoriaijo.com/library/mirror/?%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%B0%8F%E9%82%A6

このページを寄合所・新で更新する この保存版の文章は、そのまま残ります。編集のしかた

目次 上へ

相模武将一覧

北条氏邦(ホウジョウ ウジクニ)†

レベル:数†

80:7

職業†

侍

合戦配置†

四天王

戦闘開始時セリフ†

氏邦開始1.jpg


氏邦開始2.jpg


氏邦開始3.jpg


氏邦開始4.jpg


氏邦開始5.jpg


構成†

名前職業レベル初期付与使用技
北条氏邦槍侍65必討の太刀、不撓不屈、一所懸命・極、沈黙の霧・壱、蘇生の秘薬、守護術
乱波精鋭懐剣二刀忍者60
早雲寺高僧薙刀僧60反射結界完全回復
伊豆衆精鋭懐剣陰陽60結界
箱根山神官剣巫女60詠唱の韻・極、子守歌
相模鍛冶鉄砲鍛冶60守護術
箱根山山伏錫杖薬師60再生

備考†

特徴†

ドロップアイテム†

列伝†

資料上では一貫して藤田氏邦を名乗る。氏郡。北条氏康の第四子(第三子とする資料もある)。新太郎。安房守。1541年または1542年の生まれ。

1556年ごろに武蔵天神山城主である藤田康邦の婿養子となっている。ほぼ同じ時期に兄・氏照も大石綱周の養子となっている。
これらは政略的な意味が非常に強く、毛利元就の子、小早川隆景や吉川元春のように、養父の死後、その旧領を一門のものにするというのが目的である。戦国時代では嫡男以外には一貫して見られることであり、別段特殊ということでもない。

藤田康邦の旧領を継いだ後に武蔵鉢形城に移っている。
1568年ごろには敵対していた上杉家との同盟交渉を行っている。このときは氏照も行っているが、共同作業ではなく別ルートからの交渉であった。相越同盟は翌69年に成立するが結局効果はなく、武田家の小田原進攻につながる。
鉢形城は武蔵と上野の中間にある要衝であり、彼は主に上野方面の進攻を担当、禰津氏などを降伏させた後、1582年に上野箕輪城主となり西上野一帯を支配する。

兄・氏照同様に北条家中では武勇を誇る人物であり、山川、戸張宿城合戦や神流川の合戦に参加、功をあげている。
しかし氏照と違い、彼は籠城戦よりも野戦を得意としていた。
1590年、自身の家臣である猪俣邦憲が起こした名胡桃城攻めを発端として豊臣家による小田原の役が始まる。
このとき氏邦は小田原城から出て野戦に持ち込むことを主張し、同じ抗戦派であった兄の氏政、氏照や重臣であった松田憲秀の持ち出した籠城策と対立、結局評定では籠城が決定される。
氏邦は失意のうちに居城である鉢形城にもどり籠城。上杉景勝、前田利家らが率いる北国衆5万と対峙する。このときの籠城で荒川の流れをせきとめて敵が渡河するときに押し流すなどの知略を尽くすも、その後本多忠勝が大砲を投入、城兵の助命を条件に降伏する。約一月にわたる籠城であった。
開城後は城下の正龍寺に蟄居、その後助命され出家するも前田利家に預けられて客分として1000石を与えられ金沢に移る。その後1597年に没する。
彼の子孫は孫までの系譜はたどれるが、その後の足跡は不明である。

その他情報†


添付ファイル: file氏邦開始1.jpg [詳細] file氏邦開始5.jpg [詳細] file氏邦開始3.jpg [詳細] file氏邦開始4.jpg [詳細] file氏邦開始2.jpg [詳細]

トップ   保存版 リロード   一覧 検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS
Last-modified: 2026-08-05 (水) 00:09:29