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【独眼竜の野望】
【小田原の陣】

長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)†

レベル:数†

73:6-7

家紋†

豊臣

戦闘開始時セリフ†

せっかく土佐からやって来たんだ!
楽しませてくれよ!

構成†

名前職業レベル初期付与使用技
長宗我部元親一刀侍73▲▲▲鬼若子の猛撃、姫若子の舞、八箇必勝、五連撃・改、剣風斬、火攻め・弐、一所懸命・極、一刀流、守護術
長宗我部盛親二刀侍70▲若虎猛襲、八箇必勝、肋一寸、地勢看破、看破
香宗我部親泰薙刀薬師70▲、術結界土佐牛の歩調、凶風/弐、刹雷、難治撃、裏鬼門、黒呪の霧、沈黙の霧・壱
桑名弥次兵衛一刀鍛冶68捨身の斬込、徹甲拳、刀の至り
吉田康俊一刀鍛冶68捨身の斬込、徹甲拳、刀の至り
谷忠澄杖僧68▲、結界完全回復、大日如来秘法、全体回復・四、僧兵連撃・改、閻魔撃・弐、紅蓮法輪、諸法無我、双界法句、破界、戦勝の理
以下弱体可能
香宗我部親氏薙刀侍68▲▲

特徴†

鬼若子の猛撃
単体近接攻撃。頻度は低め。
姫若子の舞
味方全体にレベル2の▲を付与する。レベル2は約2分で解除される。
土佐牛の歩調
場にウエイトが増加する地勢を宿す。
捨身の斬込
岩砕きモーションの強力な近接攻撃。頻度は高く、威力は高いが貫通力は低い。

生息地域†

ドロップアイテム†

関連試練†

備考†

列伝†

長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)
1539-1599 長宗我部国親の長男。渾名は姫若子、鬼若子、土佐の出来人、鳥なき島の蝙蝠など。
はじめ本山氏、安芸氏、一条氏を滅ぼし、土佐を統一。その後、織田信長と同盟を結び、三好氏の阿波・讃岐を制圧した。
しかし、長宗我部氏の勢力拡大をよしとしない信長と敵対関係になり、1582年には織田信孝を総大将とした四国攻撃軍が編成されるも、本能寺の変により危機を脱した。
1585年には四国全土をほぼ統一することに成功したとされている。
1585年、羽柴秀長を総大将とする四国征伐軍に降伏し、土佐一国のみを安堵された。
豊臣政権下では九州の役に嫡男・信親とともに従軍。しかし、戸次川の戦いで軍監仙石秀久の独断により、島津軍に敗走。信親は討死した。その後に起こった家督継承問題では、次男・香川親和や三男・津野親忠ではなく、四男・盛親に家督を譲ることを決定し、反対派の江山親興、吉良親実などを粛清する。
小田原の役では水軍を率いて参陣している。
1599年、病に倒れ死去。享年61。
長宗我部盛親(ちょうそかべ もりちか)
1575-1615 長宗我部元親の四男。「盛」の字は烏帽子親である増田長盛から授かった。
長兄・信親が戦死すると、兄の香川親和や津野親忠を差し置いて世子に指名される。父・元親と共に小田原の陣、朝鮮出兵に参加。1599年には父の死により、家督を継ぐ。
関ヶ原の戦いでは西軍に与し、東軍の諸城を落としたが、吉川広家の内応などもあり、本戦には加わることが出来ないまま西軍は敗退した。戦後、家臣・久武親直の讒言から兄の津野親忠を殺害し、家康の怒りを買ったため、改易となったとされる。
大坂夏の陣では豊臣方に与し、木村重成らとともに徳川方の藤堂高虎と戦う。藤堂隊をほぼ壊滅させるが、井伊直孝隊の援軍により撤退。最終決戦には参加せず、再起を図って逃亡した。
その後京都に潜んでいるところを捕らえられ、六条河原で斬首。享年41。
香宗我部親泰(こうそかべ ちかやす)
1543-1593 長宗我部国親の三男。幼名弥七郎。1558年、父の命により香宗我部親秀の養子となる。
兄・元親に従い各地を転戦。1582年の中富川の戦いでは十河存保を破るなど、兄の四国統一に尽力した。
また、外交面でも織田信長との同盟や、信長死後には柴田勝家や徳川家康と通じるなど活躍した。
1592年、文禄の役で朝鮮半島に赴く途上、長門で急死した。享年51。
桑名弥次兵衛
1558-1615 桑名吉成。桑名一孝。長宗我部元親に仕え、盛親の乳兄弟として育つ。
戸次川の戦いでは殿(しんがり)を務め、元親の撤退を成功させている。
関ヶ原の戦い後、主家が改易されると、一領具足が起こした浦戸一揆の総大将に選ばれる。しかし、徳川家に捕われた主君・盛親の命を案じ、一揆の解散を画策。山内一豊に城を明け渡した。
その後、藤堂高虎の家臣となる。大坂夏の陣では八尾の戦いで盛親と遭遇。自殺に近い突撃をし、討死した。
吉田康俊(よしだ やすとし)
1565-1634 長宗我部家臣。吉田孝俊の子。吉田重俊の曾孫。
中富川の戦いや戸次川の戦いなど長宗我部家の主要な戦いに参加。
主家改易後は、山内家に仕えたが、浦戸一揆の大将だったという讒言があり、土佐を退去。
大坂の陣では大坂城に入り盛親を助けている。落城後は松平忠明に仕えた。
谷忠澄(たに ただずみ)
1534-1600 長宗我部家臣。元々は谷神社の神主で、弟の滝本寺非有と共に主に外交方面で活躍。羽柴秀吉の四国征伐の際には、主君・元親や重臣たちを説き伏せ、和睦を成立させた。
九州の役では、戸次川の戦いで八木正信に討ち取られた長宗我部信親の遺骸を受け取る使者として、新納忠元との交渉に当たった。
1600年、土佐中村城で病死。享年67。
香宗我部親氏(こうそかべ ちかうじ)
1572-1592 香宗我部親泰の嫡男。
長宗我部氏の家督継承問題以降は、父・親泰や伯父・元親の代理を務めることが多く、文録の役では元親の代理として出陣。李舜臣ら朝鮮海軍と交戦した。
戦中、病に倒れ急死。享年21。

コメント†


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Last-modified: 2026-08-05 (水) 00:09:29