大友義統 の差分
(作成時) → 版 6048(2026-10-04 11:41、旧寄合所ミラーから引き継ぎ)
+ [[府内攻め (龍造寺家)]]
+ *&ruby(おおとも よしむね){大友義統}; [#b4141078]
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+ **レベル:数 [#hd6b4629]
+ 61:5
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+ **構成 [#occc4b1b]
+ |>|>|CENTER:|||c
+ |~名前|~職業|~レベル|~初期付与|~使用技|
+ |大友義統||61|||
+ |永富鎮並|||||
+ |利光宗魚|||||
+ |戸次統常|||||
+ |少納言局|||||
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+ **生息地域 [#g275d97d]
+ -[[府内攻め (龍造寺家)]]・伍
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+ **ドロップアイテム [#f7ff3072]
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+ **列伝 [#vff760f6]
+ :大友義統(おおとも よしむね)|1558-1610 [[大友宗麟]]の長男。正室は[[吉弘ジュスタ]]。~
+ 1576年、父・宗麟の隠居により家督を継ぐ。1578年、[[耳川の戦い>耳川の合戦 (大友家)]]で大敗。戦後、内紛や龍造寺氏・島津氏の侵攻により大友氏は次第に衰退する。~
+ 1586年、[[島津義久]]による豊後侵攻が始まると、家臣の離反や[[高橋紹運]]の戦死により大友氏は滅亡の危機に立たされる。宗麟の嘆願により[[豊臣秀吉]]から[[長宗我部元親]]や[[仙石秀久]]らが援軍として派遣されるが、戸次川の戦いで島津軍に大敗する。しかし、1587年に豊臣秀吉による九州の役で島津義久が降伏すると、大友氏は豊後一国を安堵された。~
+ その後は豊臣秀吉に仕え、[[小田原の陣]]や文禄の役に参戦。しかし、1593年、明の大軍に包囲された[[小西行長]]が戦死したという誤報を信じ、城を放棄して撤退。これが秀吉の逆鱗に触れ、改易された。~
+ 1598年、秀吉の死により、罪を許される。[[関ヶ原の戦い>関ヶ原の陣]]では西軍に与し、御家再興を目指して豊後に侵攻するも[[黒田如水]]に敗れ降伏。戦後、常陸に流され1610年に死去。享年53。
+ :永富鎮並|
+ :利光宗魚|
+ :戸次統常|
+ :少納言局|大友義統の側室
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+ **その他情報 [#ve854c55]
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+ #comment
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