大崎氏屋敷 の差分

(作成時) → 版 6133(2026-10-04 11:41、旧寄合所ミラーから引き継ぎ)

+ *&ruby(おおさきしやしき){大崎氏屋敷};  [#u00d3564]
+  
+ **場所 [#n6aa73b4]
+ [[陸奥]] : 『と−ホ』付近~
+ RIGHT:旅マップは→[[こちら>地図]]←からご確認ください。
+ 
+ **敵NPC [#j43500eb]
+ |BGCOLOR(#f5f5dc):|>|CENTER:|||CENTER:|c
+ |CENTER:BGCOLOR(#000000):COLOR(#ffffff){''名前''}|BGCOLOR(#000000):COLOR(#ffffff){''レベル''}|BGCOLOR(#000000):COLOR(#ffffff){''徒党数''}|CENTER:BGCOLOR(#000000):COLOR(#ffffff){''備考''}|CENTER:BGCOLOR(#000000):COLOR(#ffffff){''ドロップアイテム''}|BGCOLOR(#000000):COLOR(#ffffff){''見破り''}|h
+ |[[大崎氏門衛]]|27-30|1-7|||○|
+ |[[反乱手引き]]|28-33|1-7||||
+ |[[奥州落ち武者]]|34-37|1-7||||
+ |[[笠原一門衆]]|28-37|1-7||[[小さな手水鉢]]【家具】||
+ |[[大崎一門]]|30-37|1-7||||
+ |[[大崎一門衆]]|31-37|1-7||||
+ 
+ **ボスNPC [#gab18b07]
+ |BGCOLOR(#f5f5dc):|>|CENTER:|||CENTER:|c
+ |CENTER:BGCOLOR(#000000):COLOR(#ffffff){''名前''}|BGCOLOR(#000000):COLOR(#ffffff){''レベル''}|BGCOLOR(#000000):COLOR(#ffffff){''徒党数''}|CENTER:BGCOLOR(#000000):COLOR(#ffffff){''備考''}|CENTER:BGCOLOR(#000000):COLOR(#ffffff){''ドロップアイテム''}|BGCOLOR(#000000):COLOR(#ffffff){''見破り''}|h
+ |[[一栗放牛]]|&color(red){55};|1|東別館|[[千社札・不眠不休]]【家具】||
+ |[[南条隆信]]|&color(red){39};|7|西別館|||
+ |[[新井田隆景]]|&color(red){37};|7|本館|||
+ |[[大崎義隆]]|&color(red){38};|7|本館|||
+ 
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+ **ゾーンドロップ [#zdb06e27]
+ -入魂材 : [[各・入魂材>入魂材]]+2or3
+ -他 : [[格式帳]]
+ 
+ 
+ **備考 [#pd054be9]
+ 大崎家は前九年の役・後三年の役で活躍した源義家の四男・義国(義国流)の流れを汲む。~
+ 義国の次男・義康は足利家の祖でもあり、大崎家は同じ流れに属する。~
+ この流れには足利家([[足利義輝]]・[[足利義氏]]など)をはじめ、畠山家([[畠山義続]]など)、細川家([[細川晴元]]・[[細川藤孝]]など)がある。~
+ 他には三河吉良家([[吉良義安]]・[[吉良義昭]])、今川家([[今川義元]]・[[今川氏真]]など)が該当する。~
+ ~
+ ~
+ 足利義康の曾孫・泰氏の子・家氏は陸奥国斯波郡(現在の岩手県盛岡市及び紫波郡)を所領としてこれを苗字とした。~
+ ただし、直接斯波姓を名乗ったのは斯波家4代当主・高経のころとされている。この子孫に[[斯波義銀]]がいる。~
+ ~
+ 斯波家3代当主・宗氏の子・家兼(高経の弟)は奥州斯波家の祖として、陸奥の地に土着した。~
+ 但し、奥州斯波家に関しては高経の子・家長を祖とするものもある。~
+ また、家兼は大崎家の祖でもある。~
+ 長男・直持は大崎姓を名乗り、次男・兼頼は最上家の祖となり、その末裔に[[最上義光]]がいる。~
+ ~
+ ~
+ 大崎家3代当主・詮持(直持の子)は1400年に奥州探題に任じられるが、鎌倉公方への謀叛が露見して殺害された。~
+ 絶大な権力を振るっていており、[[伊達家]]・南部家・葛西家などの大名は主君と従っていた。~
+ しかし、年代が下ることに大崎家の基盤の軟弱さもあり、どんどん衰退していった。~
+ ~
+ 7代当主・教兼の代は大崎家最後の栄光とされ、子女に恵まれていたこともあり、各地に嫁がせたという。~
+ うち娘の1人は伊達成宗に嫁ぎ、尚宗([[伊達政宗]]の高祖父)を産んでいる。~
+ また、息子の1人は奥州斯波家の養子となったとされている。~
+ 教兼の晩年になると石巻・寺池周辺を治めていた葛西家と対立するようになり、100年間争うこととなる。~
+ ~
+ 教兼の孫・義兼の代になると、いよいよ勢力も衰退していって1488年には領内で反乱が起きてしまう。~
+ 義兼は一時伊達尚宗を頼って落ち延びるが、この一件が原因で伊達家の介入を受けることとなった。~
+ ~
+ 義兼の次男・義直([[大崎義隆]]の父)の代になると、再び大崎家の内乱により伊達家の介入を受けて伊達稙宗(尚宗の子で[[政宗>伊達政宗]]の曽祖父)の子・義宣に家督を奪われてしまった。~
+ しかし、稙宗・晴宗父子の対立から生まれた天文の乱では晴宗方につき大崎義宣を討ち取ることに成功し、伊達家の呪縛から脱した。
+ だが、それでも事実上従属状態であり、勢力回復とはならなかった。~
+ ~
+ [[義隆>大崎義隆]]の代になるとますます勢力は衰微していき、葛西家との抗争も激化し、内乱も勃発するようになる。~
+ 1586年には大崎家で再び内乱が勃発すると、[[伊達政宗]]の介入を受け、2年後には大崎合戦と呼ばれる伊達家との戦いに発展した。~
+ 内乱の原因は[[義隆>大崎義隆]]が寵愛していた伊庭野惣八郎と[[新井田隆景]]という2人の美少年である。~
+ [[義隆>大崎義隆]]は男色を好み、2人を寵愛していたが2人は対立し、内乱へと発展していった。~
+ 余談だが、西の大大名である大内義隆も男色を好み、毛利元就の三男・[[小早川隆景]]を寵愛していた。~
+ ~
+ 結果として[[義隆>大崎義隆]]は[[政宗>伊達政宗]]に屈服し、半独立状態へと追い込まれた。~
+ [[豊臣秀吉]]の[[小田原の陣]]では参陣しなかったため(というか[[政宗>伊達政宗]]が牽制して参陣させなかった。)、奥州仕置で改易されて大崎家は滅亡した。~
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+ **関連情報 [#we4db01d]
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+ **その他情報 [#m7c64687]
+ - 備考の内乱の原因は義隆が寵愛していた伊庭 --  &new{2015-09-16 (水) 21:29:11};
+ - 途中で送信してしまいました>_<  備考の 「内乱の原因は義隆が寵愛していた伊庭…は、一説によるとの話ですよね? この部分は削除してもいいのでは。 --  &new{2015-09-16 (水) 21:32:20};
+ - 一説どころじゃない。最終的に大崎氏の家老格まで巻き込んだし。 --  &new{2015-09-17 (木) 13:39:46};
+ - にしても、当時は普通のこととは言え、男色が原因で名門の家が滅ぶとは…。 --  &new{2015-09-17 (木) 17:55:27};
+ - 一応本国とはいえ、属国クラスのLvでも良かったのでは… ↑現代で「その手段」である男色が訝しまれるというだけで、単に"寵臣が原因で内乱を起こす"というのは三国志の時代からあることですよ。むしろ本来上下関係を教えこむ衆道に耽る時点で(ry --  &new{2015-12-22 (火) 08:39:06};
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