松田憲秀 の差分

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+ [[相模武将一覧]]
+ *&ruby(マツダ ノリヒデ){松田憲秀};[#pf328f3f]
+ 
+ **レベル:数 [#s5c871ee]
+ 75:7
+ 
+ **職業 [#b3212c34]
+ 陰陽師
+ 
+ **合戦配置 [#x3f74484]
+ 後詰
+ 
+ **戦闘開始セリフ [#r788caa8]
+ #ref(松田開始1.jpg);
+ ~
+ 
+ #ref(松田開始2.jpg);
+ ~
+  己のことは自分が一番
+  よく知っているものだ。
+  それがわからぬは愚か者よ!
+ 
+  (○○○?
+   なんと情けない名前よ。
+   恥ずかしくないのか?)
+ 
+  (○○○か。この雑魚
+   相手ならば、わしにも
+   まだ勝機はあるな!)
+ 
+ **構成 [#n9d84d74]
+ |>|>|CENTER:|||c
+ |~名前|~職業|~レベル|~初期付与|~使用技|
+ |松田憲秀|錫杖陰陽|60|&color(gray){▲};結界|[[虚空]]、[[術法剣・改]]、[[武運長久]]、[[星辰法]]、[[迅雷]]〜[[弐>迅雷・弐]]、[[狂風]]〜[[弐>狂風・弐]]、[[雷滅]]等各種最上位全体術、[[閃雷・伍]]等各種準備無し属性単体術・伍、[[森羅万象]]、[[五芒陣]]、[[雷鳴・四]]、[[氷雨]]、[[低速化・参]]、[[沈黙の霧・壱]]、[[気合呪霧・参]]、[[霧散]]、[[霧散霧消]]、[[結界・参]]、[[全体麻痺]]|
+ |[[松田康郷]]|錫杖陰陽|55|結界|[[星辰法]]、[[雷滅]]等各種最上位全体術、[[千紫万紅]]、[[五芒陣]]、[[鬼道凶禍]]、[[閃雷・伍]]等各種準備無し属性単体術・伍、[[煉気掌]]、[[破界の光・極]]、[[奪付与]]、[[低速呪霧・四]]、[[呪縛・参]]、[[小細工無用]]、[[霧散]]、[[霧散霧消]]、[[結界・参]]、[[蘇生・壱]]|
+ |笠原政尭|槍薬師|55|再生|[[蘇生・壱]]、[[禍因の風]]〜[[弐>禍因の風・弐]]、[[神通召雷]]、[[鬼門]]、[[瞬雷]]、[[完全治療]]、[[全体治療・四]]、[[救護・参]]、[[全体救護・弐]]、[[活身・四]]、[[天狗法力]]、[[攻撃呪霧・四]]、[[防御呪霧・四]]、[[霧散]]、[[全体喝破]]、[[全体解呪・弐]]、反撃術|
+ |北条豪勇侍|槍侍|55||[[一所懸命・極]]、[[三>三連撃]]〜[[五連撃]]、[[四>四連撃・改]]〜[[五連撃・改]]、[[抗術破り]]、[[地勢看破]]、[[崩落の計]]、守護術|
+ |箱根山神官|剣巫女|55|反射結界|[[明神閃]]、[[神代の雷]]、[[神雷]]、[[神風]]、[[破界の光・極]]、[[詠唱の韻・極]]、[[防御の韻・参]]、[[攻撃の韻・参]]、[[防御付与・参]]、[[小細工無用]]、[[全体解呪・弐]]、[[死の唄・参]]、[[子守歌]]|
+ |相模鍛冶|鉄砲鍛冶|55||[[三段撃ち]]、[[零距離射撃]]、[[怒号・改]]、守護術|
+ |早雲寺番僧|懐剣僧|55|反射結界|[[僧兵連撃・改]]、[[凍気法輪]]、[[紅蓮法輪]]、[[紅蓮・伍]]、[[完全回復]]、[[全体完全回復]]、[[全体回復・参]]、[[冥護慈救]]、[[因果応報]]、[[後光]]、[[霧散]]、[[一喝]]|
+ 
+ **備考 [#aacb7ae8]
+ -撃破すると対応する四天王・後詰武将を弱体
+ -対応する後詰副将・後詰武将撃破で弱体
+ -争覇変更済み
+ 
+ **特徴 [#tb17a447]
+ -[[虚空]]:準備無し単体術(孔雀による軽減時で1400ダメージを確認)
+ -1の初期&color(gray){▲};は五芒陣の省略を確認
+ 
+ **ドロップアイテム [#f6305bfe]
+ -[[直違い金立物]]
+ 
+ **旧ドロップアイテム [#wd728c01]
+ 
+ **列伝 [#b4316066]
+ :松田憲秀|
+ 生年は不明(信長の野望では1540年となっているが確証はない。1530年の説もある。)。尾張守。松田盛秀(顕秀と同一人物か?)の子と伝わる。~
+ ~
+ 松田氏は出自は[[相模]]の国人説が強かったが、近年彼は備前松田氏の出自ではないかという説が浮上している。室町幕府の[[奉公衆]]に松田氏の名前があり、同じころに幕府に仕えていた伊勢宗瑞(北条早雲)と交流があった可能性もあり、この縁で宗瑞の[[駿河]
+ ]下向に従ったという説である。現在では後者の説が有力になっている。~
+ ~
+ 憲秀が家督を継いだのは1550年代とされているも正確な時期はわからない。彼は小田原衆筆頭に位置づけられ、相模西郡苅野荘などに実に2768貫を知行していた。これは[[垪和氏続]]の1028貫、[[大道寺政繁]]の1212貫などと比べても桁違いの量である。これは[[一門]]である[[北条幻庵]]を除く家臣団では最高の知行量である。後に子の政堯が笠原家当主の[[笠原綱信]]へと養子に行き、その所領(447貫)をあわせれば、なおすさまじい量である。また、[[内藤綱秀]]を婿養子としており、その権勢は[[北条家]]最大であったのであろう。~
+ [[北条氏康]]の片腕として辣腕を振るう。[[氏政>北条氏政]]、[[氏直>○○の恩義]]の代にも筆頭家老として君臨する。~
+ しかし、後に[[武田勝頼]]への内通疑惑が生じた。これはおそらく家中の何者かの謀略であり、事実はなかったようであるが、このときに面目をつぶされたらしく、後の[[小田原の役>小田原の陣]]での内通への遠因と見る人もいる。~
+ ~
+ 1590年の[[小田原の役>小田原の陣]]でははじめ降伏論を説くも、後に交戦論が主流になると籠城を主張。野戦を主張する[[北条氏邦]]、[[伊勢貞運]]らと激しく対立する。籠城論が通ると早川口を守備するが、豊臣方の[[堀秀政]]に誘われ伊豆と相模の2ヶ国を賜る条件で内通する。~
+ しかしこの内通は自身の子である直秀により氏政に発覚。憲秀は監禁される。筆頭家老の敵方への内通は当然家臣団を動揺させ、開城を早めることとなった。~
+ 戦後、この内通により[[秀吉>豊臣秀吉]]から不忠を責められ自刃に追い込まれる。~
+ ~
+ 北条家3代に仕えた重臣のなかの重臣であり、北条家臣団の中でもかなり有名な部類に入る。~
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+ :松田康郷|
+ [[松田康郷]]参照
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+ :笠原政尭|
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+ **その他情報 [#nb0f3314]
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+ #comment
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