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垪和氏続
垪和氏続
レベル:数
70:7
職業
神主
合戦配置
中備
戦闘開始時セリフ



構成
| 名前 | 職業 | レベル | 初期付与 | 使用技 |
|---|---|---|---|---|
| 垪和氏続 | 弓神主 | 55 | ▲ | |
| 川越衆精兵 | 薙刀侍 | 50 | 守護術 | |
| 修善寺僧 | 槍僧 | 50 | 完全回復、全体完全回復、大日如来秘法 | |
| 武蔵野薬採り | 懐剣薬師 | 50 | ||
| 吉原花魁 | 傘傾奇 | 50 | 詠唱の韻・極 | |
| 小田原石工 | 棍棒鍛冶 | 50 | 守護術 | |
| 伊豆衆闘兵 | 懐剣陰陽 | 50 |
備考
- 撃破すると対応する後詰副将・中備武将を弱体
- 対応する中備副将・中備武将を撃破することで弱体
特徴
ドロップアイテム
列伝
垪和又太郎の子と言われるものの不明。生年も不明(信長の野望では1540年生となっているが確証は皆無)。伊予守。
垪和氏は美作国の出自といわれるが実際のところ不明であり、室町幕府の奉公衆を勤めていたとも言われているがこれも不明。駿河の土豪という説もある。
伊勢宗瑞(北条早雲)の代から仕えていた名跡であり、相模中郡沼部郷および武蔵小沢郷、相模東郡千束七木などに1128貫675文を知行していた。これは富永氏(富永直勝の家)と並ぶ、一門を除くと最高クラスの知行高である。
1557年に家督を継いただといわれているもののその後1569年までは書物から姿を消し、その間の動向は不明である。国衆なみの扱いを受け、評定衆、虎印判状の奉行も勤めたとされる。松山衆に列せられている。
1569年、武田氏との同盟が破れると薩垂峠に布陣したり駿河興国寺城に城主として入るなど、駿河方面での守備に奔走する。このときは武田信玄からの攻撃を防ぐ功をあげている。
その後書物から再び姿を消す。なお、1579年に垪和又太郎が氏直から一字もらっているものの、これはどうやら氏続の子か一族のようで、彼本人ではない。
1582年、神流川の戦で滝川一益を破り北条氏政から賞賛されたのを最後に書物から姿を消す。没年は同年の1582年といわれているものの確証はない。
江戸期の山鹿素行の武家事紀にも賞賛されているが、後世の武勇の誉れも高い割には謎の多い人物である。しかしながら1569年のように占領直後の城の城主に任命されるなど、信頼の厚かった人物のようである。
その他情報
- はがうじつぐ と読む! -- &new{2011-05-25 (水) 21:36:31};
元の文章: 旧寄合所ミラーの「垪和氏続」(2026-10-04 11:41 に引き継ぎ)をもとにしています。
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