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細川藤孝

足利家
山城武将一覧

細川藤孝(ホソカワ フジタカ)

レベル:数

65:7

職業

陰陽師

配置

本陣四天王

戦闘開始時セリフ

添付: 細川藤孝1.jpg(旧寄合所ミラーで表示)


添付: 細川藤孝2.jpg(旧寄合所ミラーで表示)


添付: 細川藤孝3.jpg(旧寄合所ミラーで表示)

構成

名前職業レベル初期付与使用技
細川藤孝刀陰陽65▲結界 妖周天名家の誇り、将軍の威光、蘇生の秘薬、沈黙の霧・壱
有吉立言鉄砲鍛冶60守護術
鞍馬山伏薙刀薬師60再生蘇生・壱
将軍家兵法者斧侍60守護術
八坂巫女精鋭懐剣巫女60詠唱の韻・極
水破中忍懐剣忍者60
等持院僧兵棍棒僧60反射結界

部隊アイテム

ドロップアイテム

特徴

列伝

細川藤孝

細川幽斎として有名。一時長岡を名乗る。与一郎。兵部大輔。三淵晴員の次男。1534年の生まれ。

将軍足利義晴の命で伯父の細川元常の養子になる。成長した後は足利義輝に申次として仕える。近江出奔など義輝と行動をともにしていたようである。
京に戻った後、足利義輝は暗殺される。このとき藤孝は興福寺に監禁状態(名目上は出家)にあった義輝の弟義昭(義秋)を開放し諸国をともに放浪することになる。

その後明智光秀らとともに信長の援助を得て上洛を果たし、足利義昭を第15代将軍に就けることに成功する。1568年のことである。
なお、このころから足利幕臣として義昭に従うとともに、信長の命にも従うようになる。

1573年に義昭が追放されると、信長の配下となる。このときには特に咎めもなく、信長の彼に対する評価が伺える。このときに山城国長岡城を与えられ、このころ一時姓を長岡とする。その後嫡男忠興が丹後に所領を与えられるとこちらに移ることになる。姓はこのころに戻したようである。

1582年、本能寺の変で信長が横死すると、その変の首謀者である明智光秀の娘玉子が子忠興に嫁いでいたこともあり、光秀から参戦の要請が来る。
このとき彼は髪を剃り幽斎玄旨と名乗り、さらには玉子を監禁し反明智を鮮明に打ち出す。このため光秀死亡後も特に咎はなく、秀吉に仕え所領を与えられる。その後は九州征討や小田原の役に従軍する。朝鮮出兵では肥後名護屋に陣を張る。

秀吉没後、彼は家康に近づき、関ヶ原では東軍に属する。このとき居城の田辺城を西軍に取り囲まれるも籠城で60日間もの間釘付けにする。しかしこのときは彼の戦死で古今伝授が途絶えることを憂慮した後陽成天皇の勅命を受け開城する。
その後九州で忠興が39万9千石を拝領するとこちらに移り、1610年に没した。

彼は宗祇以来続く古今伝授(古今集の歌の解釈などを伝えるもの。資料は近年まで封印されており中身は一部の人のみで受け継がれていた)を受け継いだ人物でもあり、また茶道などの芸道にも精通する超一流の文化人であった。そのため天皇家とのパイプも太く、交渉などをたびたび任されている。また彼は軍事にも精通していた。
その教養の高さが激動の戦国時代を生き抜く鍵だったのであろう。彼の命脈は現在も続いている。

有吉立言

その他情報

  • 忠興が消滅して精鋭懐剣侍がはいってます -- &new{2009-09-02 (水) 13:16:44};

最終更新: 2026-10-04 11:41(旧寄合所ミラーから引き継ぎ) / このページの貢献者

元の文章: 旧寄合所ミラーの「細川藤孝」(2026-10-04 11:41 に引き継ぎ)をもとにしています。

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