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高坂昌信
高坂昌信
レベル:数
80:7
職業
陰陽師
戦闘開始時セリフ
添付: 高坂昌信1.jpg(旧寄合所ミラーで表示)
添付: 高坂昌信2.jpg(旧寄合所ミラーで表示)
添付: 高坂昌信3.jpg(旧寄合所ミラーで表示)
○○○○殿!先日は 手加減をしすぎました。 今日こそは本気でいきます!
ふふふ。我が武田家は 突撃一本槍の猪武者だらけ と思ったら間違いですよ。
・東西戦専用セリフ
西軍四天王として、 務めを果たしましょう。 斬り捨てます!
構成
| 名前 | 職業 | レベル | 初期付与 | 使用技 |
|---|---|---|---|---|
| 高坂昌信 | 陰陽 | 80 | ▲ ▲反射結界 | 甲州軍学・林、甲州軍学・火、虚空、術法剣、疾雷 |
| 高坂昌澄 | 僧 | 75 | 結界 | 後光、完全回復、全体完全回復 |
| 富士講講中 | 薬師 | 75 | 再生 | 凶風・五 |
| 春日源五郎 | 薙刀侍 | 75 | 一所懸命、守護術 | |
| 歩き巫女 | 弓巫女 | 75 | 反射結界 | 神雷、詠唱の韻・極 |
| 甲陽流忍者 | 懐剣忍者 | 75 | 五連撃 | |
| 甲州金山師 | 鉄砲鍛冶 | 75 | 陽動、三段撃ち、守護術 |
ドロップアイテム
特徴
列伝
- 高坂昌信
源助、源五郎。弾正忠。確実な資料では名は虎綱という。昌宣、晴昌、晴久。春日大隈守の子。1527年の生まれとされる。
大百姓の出身であり、16歳のときに信玄に見出されて奥近習となる。
使番を経た後に1552年には侍大将に取り立てられ、1554年には小諸城代となり、さらに1556年には海津城代となる。このときの禄は9000貫であり、武田家臣では最大の知行量である。
このころに信濃の名跡である高坂家を継ぐが、すぐに春日姓に戻しており、高坂を名乗っていた時期は非常に短い。
わずか29歳で武田家で最高の知行量を持ち、上杉勢との抗争の最前線である海津城代に取り立てられるという彼の厚遇は信玄の寵愛だけではないことは想像に難くない。
1561年の第4次川中島合戦では上杉勢を追撃、大きな戦果をあげたとされる。
彼の戦は、「逃げ弾正」などと評されるほど思慮深く、ゴリ押しを好まず情報を重要視した戦術を好んだ。
甲陽軍鑑によると長篠の戦で武田勢が大敗を喫したときは、居城の海津城からいち早く武田勝頼を出迎え、あらかじめ用意した衣服を着けさせ、凱旋軍を装い領民の不安を抑えたとされている。その後1578年に没。
彼は甲陽軍鑑の表向きの作者とされている。しかし、甲陽軍鑑は小幡景憲(小幡虎盛の孫)という人物が確実に編纂、または執筆に係わっており、昌信はまったく関与していないという説も存在する。
甲陽軍鑑自体の歴史的資料としての価値は「創作の意図が強い」という理由からもともと高くないのだが、表向きの作者とされている高坂昌信に関しては、後にエピソードが加えられている可能性が高く、実像を見るのは困難かつ慎重にならなければならない。
甲陽軍鑑自体は少なくとも信玄時代の何らかの資料を下敷きにしているようであるが、その内容は明らかな間違い、または他の資料がなければ事実と認定されないものも多分に含んでおり、すべての内容について、逐一検討が必要である(詳しくは甲陽軍鑑にて)。
ネット上では昌信を「甲陽軍鑑」の著者、作者として紹介している文が多分に見られるが、実際に彼自身が甲陽軍鑑を書いた可能性は低く(実際には原著者である可能性も低い)、この紹介は明らかな間違いとしなければならないだろう。
- 高坂昌澄
- 春日源五郎
その他情報
- 1が虚空と言う準備無し単体術を使ってきました。3000以上のダメージです。 -- &new{2008-06-13 (金) 05:21:08};
- 武田の武将は強化しなくていいよ技能強いんだし・・・ -- &new{2008-06-13 (金) 06:46:58};
- 星→軍学・火で5000↑のダメージが三人〜五人。このコンボきたら終了とも言えるクソゲーです。内藤ほどではないですが -- [[ ]] &new{2010-12-22 (水) 09:18:08};
- 看破しなきゃ当たり前では?w -- &new{2010-12-22 (水) 09:45:17};
元の文章: 旧寄合所ミラーの「高坂昌信」(2026-10-04 11:41 に引き継ぎ)をもとにしています。
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